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騎士団(きしだん、英語:Chivalric order)は、十字軍時に設立された騎士修道会、及びそれを模して各国の王・貴族が作った騎士とその付属員から構成される団体である。後者は実際の軍事集団としてより、名誉・儀礼的な意味合いが強く、後にヨーロッパの勲章システムに受け継がれていく。 12世紀に十字軍が得た聖地エルサレムを守備するために、修道士を兼ねた騎士の集団(宗教騎士団)としてテンプル騎士団が創設され、それに準じた騎士修道会が次々作られた。しかし、エルサレムが失われ十字軍運動が失敗すると、騎士修道会の存在意義も薄れていった。 14世紀にはいると軍事方式も変わり、長弓、弩弓を持つ歩兵の重要度が高まり、騎士の重要性は薄れていった。しかし、騎士の軍事的実用性が失われると、却って名誉としての騎士の意識が高まり(騎士道精神)、アーサー王伝説の円卓の騎士や騎士修道会への憧れが強まった。そこで、力のある王や貴族が名誉システムとして、あるいは友愛組織として騎士修道会を模した騎士団(世俗騎士団)を設立するようになった。 カラット・サラーフ・アッディーン(アラビア語: Qal'at Salah El-Din、旧名ソーヌ Saone、別名サラディン城)は、シリアに築かれた十字軍時代の代表的な城。シリアの港湾都市ラタキアの30km東の山中にあり、二つの深い渓谷に挟まれた峰の上に建ち、森に囲まれている。城の名は、1188年にこの城を十字軍から奪ったムスリムの武将サラーフッディーン(サラディン)にちなんでいる。2006年にクラック・デ・シュヴァリエと共に世界遺産に登録された。 この城は古代よりあり、おそらくフェニキアの時代(紀元前1千年紀の初頭)に建てられたと考えられる。フェニキア人は紀元前334年にアレクサンドロス大王にこの城を引き渡したといわれる。以後しばらく歴史からは消えているが、10世紀半ば、ビザンティン帝国の皇帝ヨハネス1世ツィミスケスが領土を東へ大きく拡張した際、アレッポのハムダーン朝からこの地を奪っており、防御のための構造物を建設している。 12世紀初頭、この城は十字軍の手に落ちた。1119年、十字軍国家アンティオキア公国の摂政サレルノ伯ロジェ(ルッジェーロ)から、ソーヌのロベール(Robert of Saone)が城の所有権を受領し守りを任されたことが記録に残っている。今日の姿のほとんどはこの時期建設されたものである。1188年7月、シリアから西洋人の領土のほとんどを一掃したアイユーブ朝のサラーフッディーンの軍勢が城壁を破り、この勝利にちなみ現在の名がつけられた[3] 。 この城はエジプトのスルタン・バイバルスとカラーウーンの時代までムスリム勢力がくりっく365 していた。 そびえる城壁この砦の最も素晴らしい部分は、露出した岩盤まで掘られた深さ28mもの濠である。おそらくビザンティン時代に掘られたとされるが、完成したのは十字軍の時代とみられる。濠は、城の東に沿って156mにわたって伸び、幅は14mから20mあり、これを渡るのは高さ28mの岩の尖塔に支えられた跳ね橋のみである。 城門は砦の南にある。門の右は外為 の造った稜堡と守備塔があり、数メートル先には別の守備塔がある。濠を見下ろす大きな見張り塔のすぐ横には厩と貯水槽がある。この見張り塔の壁は厚さが5mもあり、敷地面積はおよそ24平方mである。北には、かつて跳ね橋のあった城門がある。砦中央にはビザンティン時代の城塞があり、中には大きな水槽、十字軍が作った東屋、ビザンティンが造った二つの礼拝堂のうちの一つの隣に十字軍が作った教会がある。 アラブ人が砦に追加した部分には、カラーウーンの時代のモスクや、中庭などのある風呂が造られた宮殿などがある。これらは少しだけ修復されている。 この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。 (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。 (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。 キリキア・アルメニア王国(キリキア・アルメニアおうこく、アルメニア語:????????? ???????? ?????????????? kilikiayi haykakan thagavoruthyun、1080年あるいは1198年 - 1375年)は、現在のトルコ南岸部のキリキア地方においてアルメニア人により建国された王国。単にキリキア王国、もしくはキリキアのアルメニア王国という言い方もされる。また、紀元前にカフカス地方に存在したアルメニア王国(大アルメニア王国)と区別して小アルメニア王国と呼ぶこともある。ただし、単に「小アルメニア」と呼ぶ場合は、時に、古代の大アルメニア王国がローマ帝国によって部分的に間接統治されたときの地域・アルメニア外為 のことを指すこともあるため、注意が必要である。 建国年については、第一王朝(ルーベン王朝)の創始年である1080年をして建国年とみなす説と、ローマ教皇らに王冠を授けられて独立国と認められた1198年からとみなす説があり、文献によってまちまちである。(本項では、あくまで章の分割の容易さなどから、前説を採ることにする。)1198年に当時の君主レヴォン2世が王として認められるまでは、代々の君主は侯(prince)であり、国も王国ではなく侯国であったことに注意すること。 建国当時は隣にアンティオキア公国などの十字軍国家があり、それらの国々や西欧諸国と密接に関わっていた国である。 紀元前後よりローマとペルシャの両者により間接的な支配を受け続けていたカフカスのアルメニア地方[1]は7世紀、ムスリムの侵略を受け、一部のアルメニア人はペルシャや東ローマ帝国などの外部へ移住した。その後一旦アルメニアはかつての勢力を挽回したが、11世紀になると国力を回復した東ローマ帝国により侵略される[2]。その後さらに11世紀半ばには、東方において勢力の膨張しているセルジューク・トルコにより侵略される。この一連の侵略により、カフカスを離れ移住していくアルメニア人は増え、彼らはペルシャやコンスタンティノープル、バルカン半島などにも移住したが、多くはキリキアや、その東部のシリア北部(現在のトルコ南東部とシリアとの国境あたり、つまりエデッサのあるあたり)[3]、カッパドキア、小アジアなどに移住していった。 一方キリキアは、10世紀前半まではアラブ系の支配領域だったが、当時ここのワラント だったアラブ系のハムダーン朝は963年に東ローマ帝国のニケフォロス2世との戦闘で敗退し、キリキアは東ローマ帝国領となる。このときに、東ローマ帝国はこの地方を執りまとめる長官にアルメニア人を指定した。ところが彼らは世襲化されたため、この地方の長官たちは土地の開発にいそしんで私腹を肥やし、勢力をつけるようになる。もはや彼らにとって東ローマ帝国は、自分たちの権威を裏づけたり東ローマ帝国の権威を利用したりするためだけの存在となり、彼らは東ローマ帝国の中央政府に対してはうわべだけの忠誠心しか見せていなかった。 当時のキリキア住人は多くがギリシャ人やシリア人、アラブ人であったが、全般的に閑散とした地域であったといわれている。ここに続々とアルメニア人が移住し、キリキアはまたたく間にアルメニア人優勢の地域となっていく。彼らアルメニア人移民は不動産投資 だけでなく、商人や貴族など、さまざまな身分の人々で構成されていた。 そして11世紀後半になると、それまでアルメニアを攻撃していたセルジューク・トルコが進路を変更し、小アジアへ侵攻しようとしていた。1071年マンジケルトの戦いで東ローマ帝国は大敗し、東ローマ帝国の勢力が弱くなっていく。そして、キリキアの地にもトルコ軍が進入してくる。 そしてこのころ、東ローマ帝国がセルジューク朝の侵略に手を焼き、キリキアの統治に目がいかなくなっている間に、キリキア(および北シリア)の各地では、勢力をつけたアルメニア人有力者によるいくつかの小君主国が誕生する。これらの諸国の統治者は次の2種に分けられる。 あくまで東ローマ帝国の権威を保ったまま統治しようとする、東ローマ帝国のアルメニア人官職者 カフカスから移住してきた、民族派のアルメニア人貴族 小君主のうちの多くは前者であった。しかしこれらの諸国は、不安定であった。この地域には侵略者であるトルコ人が進出していた上、民衆であるアルメニア人にとってはアルメニアの侵略者である東ローマ帝国の役人であり、宗派が異なることもあって、全然信頼されていなかった。たとえば、キリキアの広範囲を領有していた東ローマ帝国のアルメニア人地方長官フィラレトゥスは1078年に建国するが、10年も経たないうちに崩壊する。 これらの小君主国のなかで着々と力をつけてきたのは、キリキア北部、トロス山脈を横切る、通称「キリキアの門」と呼ばれた隘路の東の山中に城砦を築いていたルーベン(ルーペン)であった。彼はこの地で1080年に小国を樹立する。彼は東ローマの役人ではなく、カフカス出身のアルメニアの貴族であった。東ローマ帝国に侵略されるまでの1世紀間ほどアルメニアで勢力をつけていたバグラトゥニ朝(バグラティド朝)の血を受け継いでいたともいわれる。彼が構えた領域は交通の要衝地であり、守りの堅い地であった。この後ルーベンを始祖とするこの国は徐々に力をつけてキリキア全土を支配する王国となるため、ルーベンの家系はルーベン朝(ルベニッド朝)と呼ばれる。 マンジケルトの戦いによる敗北以降、じわじわとセルジューク朝に小アジアの領土を奪われていった東ローマ帝国は、11世紀末にアナトリア半島の西岸あたりまで攻め寄られると、東ローマ帝国は1095年、ローマ教皇を通し、西側諸国に援軍を要請する。当時の西側諸国では諸侯が各々の農村(荘園)を統治する荘園制で成り立っていたが、ヴァイキングの活動の沈静化により、戦いに飢えた領主どうしの争いが多かった。そんな中、民衆の間で聖地への巡礼がブームだった西欧では「イスラムがエルサレムの巡礼者を虐殺している」というデマが流れたため、旗揚げする口実を見つけた諸侯や騎士、巡礼希望者が集い、第1回十字軍となって出陣する。しかし、コンスタンティノープルに結集した十字軍はこの地の政府や民衆に冷遇され、これを境に十字軍と東ローマ帝国は対立するようになる。 セルジューク朝をはじめ諸勢力に侵略を受けていたアルメニア人にとって、このような十字軍はまさしく救世主であった。カトリックである彼らとは宗派こそ違っていたが、セルジューク軍に敵う勢力である上、アルメニア人にとって目の敵である東ローマ帝国とも不和状態だった十字軍は、まさに神の遣いと思えただろう。アルメニア人は彼らを味方にすることで自分たちによる統治を磐石なものにしようと考える。 夏の猛暑のさなかで水や食糧の不足に耐えながらアナトリア高原でセルジューク軍を破り、シリアのアンティオキアに向けて東進してきた十字軍は、1097年9月頃にタルソス山脈の北西にやってくる。ここで大多数の十字軍騎士諸侯は最短路であるが難所でもあるキリキアの門を避けてカッパドキアへ進む。そこでこの地に移住していたアルメニア人は彼らの来訪を熱烈に歓迎し、食糧などの物資を支援した。また十字軍はアルメニア人のいる街を包囲していたセルジューク軍を駆逐したりもしている。 一方、ブーローニュのボードワンとタラント公ボエモンの甥タンクレッドは迂回路の提案が東ローマ帝国の道案内役のよるものだったために反対し、めいめい独自に軍を率いてキリキアの門を進んでいく[4]。彼らは、タルソスやアダナなどのキリキア平野部の街にある城塞などに構えているセルジューク軍を排除し、その後十字軍本体と合流するため東方に去っていく。